芋が異様に好きで、中でもジャガイモ、サトイモなんかはやばい。
「やばい」という陳腐な表現は使いたくないのだけれども、他に良い言葉が見つからない。
だから、「束芋」という名を本屋の棚で初めて目にしたときも、自然と手が伸びた。
この半年ほど、本屋に行く度に、この美味しそうな名をしたイラストレーターの作品集を手にし、
「ほ~~ん」
「ふむむむむ」
「う~~むむ。」
などとよく分からない独り言をつぶやき続けたのだが、遂に意を決して会計に向かった。
そして、自宅で一人、作品集を眺めながら「ほ~~ん」などとつぶやいている。
http://www.nmao.go.jp/japanese/b2_exhi_beginning_tabaimo.html
Saturday 28 August 2010
Sunday 22 August 2010
野暮ったさと美しさ
野暮ったい。保守的。白人音楽。
近年、ノラ・ジョーンズやジェシー・ハリスなんかがお洒落にアレンジしたお陰で、少しずつ変わりつつあるのかもしれないけれども、カントリー・ミュージックに対して僕らが持つイメージ(偏見)は根強い気がする。
ジェフ・ブリッジス演じるカントリー・ミュージシャンの姿を描いた映画「クレイジー・ハート」を観終わった後も、その印象が変わることはなかった。
かつて一世を風靡したものの、酒に溺れ、地方でのステージなどで何とか生計を立てている主人公。自分がかつて音楽を教えた若手歌手の前座に呼ばれる、という屈辱も受け入れながら、恋をし、再生の道を探る・・・
音楽とプロレスという違いはあるにせよ、扱っているテーマはミッキー・ロークの「レスラー」に似ている。
これといった大きな物語の展開も無い。
けれども、さもすればカントリー・ミュージック同様に「野暮ったく」なってもおかしくないこの映画に光を挿し込んでいるのが、映像である。公演のために車で各地を移動する主人公の姿と共に、アメリカ南部の雄大な自然を描き出す。旅がテーマではないはずなのに、観客はこの映画にどこかロード・ムービーのような開放感を味わう。
物語は決してハッピー・エンディングとは言えないのだけれども、最後のシーンで映し出されるコリン・ファレル演じる教え子の野外コンサート会場の美しさといったら。
カントリー・ミュージックに対する僕のイメージは、今後も変わることがないかもしれない。けれども、ラジオなどでカントリー・ミュージックを聴いたら、この映画の映像の美しさを思い出すことはあるかもしれない。
そして、そのような美しくも厳しい土地で生活をしている人間(カントリー・ミュージックを愛する人々)に対するイメージも、少しは変わり得るのかもしれない。
http://movies.foxjapan.com/crazyheart/
近年、ノラ・ジョーンズやジェシー・ハリスなんかがお洒落にアレンジしたお陰で、少しずつ変わりつつあるのかもしれないけれども、カントリー・ミュージックに対して僕らが持つイメージ(偏見)は根強い気がする。
ジェフ・ブリッジス演じるカントリー・ミュージシャンの姿を描いた映画「クレイジー・ハート」を観終わった後も、その印象が変わることはなかった。
かつて一世を風靡したものの、酒に溺れ、地方でのステージなどで何とか生計を立てている主人公。自分がかつて音楽を教えた若手歌手の前座に呼ばれる、という屈辱も受け入れながら、恋をし、再生の道を探る・・・
音楽とプロレスという違いはあるにせよ、扱っているテーマはミッキー・ロークの「レスラー」に似ている。
これといった大きな物語の展開も無い。
けれども、さもすればカントリー・ミュージック同様に「野暮ったく」なってもおかしくないこの映画に光を挿し込んでいるのが、映像である。公演のために車で各地を移動する主人公の姿と共に、アメリカ南部の雄大な自然を描き出す。旅がテーマではないはずなのに、観客はこの映画にどこかロード・ムービーのような開放感を味わう。
物語は決してハッピー・エンディングとは言えないのだけれども、最後のシーンで映し出されるコリン・ファレル演じる教え子の野外コンサート会場の美しさといったら。
カントリー・ミュージックに対する僕のイメージは、今後も変わることがないかもしれない。けれども、ラジオなどでカントリー・ミュージックを聴いたら、この映画の映像の美しさを思い出すことはあるかもしれない。
そして、そのような美しくも厳しい土地で生活をしている人間(カントリー・ミュージックを愛する人々)に対するイメージも、少しは変わり得るのかもしれない。
http://movies.foxjapan.com/crazyheart/
Monday 16 August 2010
写真とボール
彼のことを初めて知ったのはいつだろうか。
きっと、彼がサッカーマガジンという週刊誌で、写真+エッセーという贅沢な連載を始めて
からだと思う。
気付いたら、発売日に本屋に立ち寄り、その連載が掲載されている丁度真ん中
のページを開くことが、毎週の習慣にすらなっていた。
既にその連載は終わってしまったのだけれども、雑誌'Number'に、たまに写真付の
文章が載ることがある。だから、'Number'が発売されるごとに、目次で彼の名前が
無いかを確認することが現在の新たな習慣となった。
写真家ではあるのだけれども、彼の書く文章が物凄く好きで、いま、僕がこうして
文章を定期的に書くようになった理由の何割かは、彼の影響もあるように思える。
「サッカーマガジン」における連載をまとめた「木曜日のボール」という著作は、今まで
何回読み返したか分からないほど。
そんな彼、近藤篤さんが、いつの間にかHPを立ち上げていた。
毎日、彼のHPを確認するという新しい習慣が出来た。
http://atsushikondo.com/
きっと、彼がサッカーマガジンという週刊誌で、写真+エッセーという贅沢な連載を始めて
からだと思う。
気付いたら、発売日に本屋に立ち寄り、その連載が掲載されている丁度真ん中
のページを開くことが、毎週の習慣にすらなっていた。
既にその連載は終わってしまったのだけれども、雑誌'Number'に、たまに写真付の
文章が載ることがある。だから、'Number'が発売されるごとに、目次で彼の名前が
無いかを確認することが現在の新たな習慣となった。
写真家ではあるのだけれども、彼の書く文章が物凄く好きで、いま、僕がこうして
文章を定期的に書くようになった理由の何割かは、彼の影響もあるように思える。
「サッカーマガジン」における連載をまとめた「木曜日のボール」という著作は、今まで
何回読み返したか分からないほど。
そんな彼、近藤篤さんが、いつの間にかHPを立ち上げていた。
毎日、彼のHPを確認するという新しい習慣が出来た。
http://atsushikondo.com/
Thursday 12 August 2010
ペルシャ
映画館に置いてあるチラシのデザインにピンときた。
西洋文化の規制が厳しいイランにおいて、警察に何度も拘束されながらもロック音楽を続ける若者の姿を描いた「ペルシャ猫を誰も知らない」を、渋谷のユーロスペースで見る。
国内でのライブ活動やCDの発売が叶わないため、ロンドンに亡命することを決めた男女2人と、彼らと同様にアンダーグラウンドで音楽活動を続ける若者たち。
音楽を演奏すること自体が規制されているので、彼らを主人公にした映画の撮影許可など下りる筈もなく、撮影はゲリラ。イラン国内での上映予定はなし。まさに「命がけ」の映画。
そんな重苦しいテーマを抱えながらも、彼らが奏でる多様な音楽や会話を聞いていると、ここは本当にテヘランなのだろうか、と思ってしまう。
決して洗練された音楽ではないけれども、自由を切実に求める歌詞を聞いていると、「これこそがロックンロールだ」と思う。
彼らが高台から眺めるテヘランの夜景は、どこまでも美しく、どこまでも切ない。
Tuesday 10 August 2010
たまや
3歳(!)のときからの友達・まりこ嬢に誘われて、「せいせき多摩川花火大会」に行ってきた。
僕らが育った東京の国立という街は、花火大会が行われた聖蹟桜ヶ丘とはそれほど遠くない。
ところが、国立市は中央線沿線であり、西に立川、東に吉祥寺がある。要するに、「遊びに行く」といえば、これらの街になる。だから、僕らのような「オレンジ」の電車を見て育った人間にとって、京王線沿線は「近くて遠い街」という感覚が、心のどこかにある。
夕方に国立駅で待ち合わせて、バスに乗り、聖蹟桜ヶ丘まで向かう。
「耳をすませば」の舞台でしられるこの街に来たのは、何年ぶりであろうか。
まずは「花より団子」だろう。ということで居酒屋に入り、お互いの近況を報告しあう。
看護師である彼女は現在、保健師の資格をとるために地方の学校に通っている。
ここしばらく東京を離れていない僕にとって、その街の雰囲気や、現在の同級生の話を聞いたりするのが面白い。
「そろそろ時間だねぇ」ということでお店をあとにし、会場の多摩川の河川敷に向かう。
花火大会を真面目に見るのが本当に久しぶりだったので、最近の技術の進歩に驚いてしまったのだけれども、たまに打ち上げられる昔ながらの花火は、地味だけれども、何だか心地が良かった。
周りの観衆はカップルや家族連れがほとんどで、いい歳をした男女2人の僕らも、傍からは夫婦か恋人に思われているのだろうな、と考えると何だかおかしかった。
http://hanabi.tama.jp/index.html
僕らが育った東京の国立という街は、花火大会が行われた聖蹟桜ヶ丘とはそれほど遠くない。
ところが、国立市は中央線沿線であり、西に立川、東に吉祥寺がある。要するに、「遊びに行く」といえば、これらの街になる。だから、僕らのような「オレンジ」の電車を見て育った人間にとって、京王線沿線は「近くて遠い街」という感覚が、心のどこかにある。
夕方に国立駅で待ち合わせて、バスに乗り、聖蹟桜ヶ丘まで向かう。
「耳をすませば」の舞台でしられるこの街に来たのは、何年ぶりであろうか。
まずは「花より団子」だろう。ということで居酒屋に入り、お互いの近況を報告しあう。
看護師である彼女は現在、保健師の資格をとるために地方の学校に通っている。
ここしばらく東京を離れていない僕にとって、その街の雰囲気や、現在の同級生の話を聞いたりするのが面白い。
「そろそろ時間だねぇ」ということでお店をあとにし、会場の多摩川の河川敷に向かう。
花火大会を真面目に見るのが本当に久しぶりだったので、最近の技術の進歩に驚いてしまったのだけれども、たまに打ち上げられる昔ながらの花火は、地味だけれども、何だか心地が良かった。
周りの観衆はカップルや家族連れがほとんどで、いい歳をした男女2人の僕らも、傍からは夫婦か恋人に思われているのだろうな、と考えると何だかおかしかった。
http://hanabi.tama.jp/index.html
Monday 9 August 2010
普通でいいです
随分前から、日本語の「普通」という言葉が気になっている。
普段、何気なく使ってしまうこの言葉。
学生時代にカフェでアルバイトをしていた頃、「サイズはいかがなさいますか?」と問いかけると、
「あぁ~、普通でいい」
と返され、対応に困ってしまったことは一度や二度ではなかった(そのような返答をする人は、何故か中年の男性が圧倒的に多い)。
まぁ、ドリンクのサイズ程度の話なら、「ショートから〇〇までございましてですねぇ・・・」などと説明すれば片はつくのだろうけれども、例えば美容師さんがお客さんに「普通でいいです」なんて言われたら大変だろうなぁ、と思う。
一般的に、「普通」という言葉には若干マイナスの要素が含まれていることが多いような気がする。
けれども、歳を取るにつれて、「普通」であることが心地良いというか、自然であることが多くなった。
例えば洋服に関しては、20歳前後の頃は、「いかにして他の人と違いを見せるか」なんてことを少なからず思っていたのだけれども、もうこの歳になると、着心地が良くて自分らしくいれる「普通」さを何より求めるようになってきた。
中村好文という建築家の作品集「普通の住宅、普通の別荘」を読んでいたら、丁度同じようなことを記した文章があり、大いに納得させられた。
「私が潜在的に目指していたものは、人々が目を見張り、誰もが話題にせずにはいられない「特別なもの」ではなく、気張りもしないし、気取りもしない。背伸びもしないし、萎縮もしない。無理もしないし、無駄もしない。それでいてまっすぐに背筋の通った「普通のもの」でした。そして、用を満たすという観点や、美しさという視点からも、過不足なくほどよくバランスの取れた「ちょうどいいもの」でした。」
言葉で書くのは簡単だけれども、こんなスタイルを目指すことは生半可ではないはず。
しかも彼は「建築家」という、「自己主張」をする必然性のある職業であるので尚更である。
そんな彼の作品集を、時間をかけてゆっくり眺めている。
この住宅に住む人は、この部屋でどんな生活を送っていてるのだろうか。
本を手に取りながら勝手に空想をする。
そうしてみて初めて気付くのだけれども、彼の「普通」は、どこか心地よい。
http://www.toto.co.jp/company/press/2010/05/25.htm
普段、何気なく使ってしまうこの言葉。
学生時代にカフェでアルバイトをしていた頃、「サイズはいかがなさいますか?」と問いかけると、
「あぁ~、普通でいい」
と返され、対応に困ってしまったことは一度や二度ではなかった(そのような返答をする人は、何故か中年の男性が圧倒的に多い)。
まぁ、ドリンクのサイズ程度の話なら、「ショートから〇〇までございましてですねぇ・・・」などと説明すれば片はつくのだろうけれども、例えば美容師さんがお客さんに「普通でいいです」なんて言われたら大変だろうなぁ、と思う。
一般的に、「普通」という言葉には若干マイナスの要素が含まれていることが多いような気がする。
けれども、歳を取るにつれて、「普通」であることが心地良いというか、自然であることが多くなった。
例えば洋服に関しては、20歳前後の頃は、「いかにして他の人と違いを見せるか」なんてことを少なからず思っていたのだけれども、もうこの歳になると、着心地が良くて自分らしくいれる「普通」さを何より求めるようになってきた。
中村好文という建築家の作品集「普通の住宅、普通の別荘」を読んでいたら、丁度同じようなことを記した文章があり、大いに納得させられた。
「私が潜在的に目指していたものは、人々が目を見張り、誰もが話題にせずにはいられない「特別なもの」ではなく、気張りもしないし、気取りもしない。背伸びもしないし、萎縮もしない。無理もしないし、無駄もしない。それでいてまっすぐに背筋の通った「普通のもの」でした。そして、用を満たすという観点や、美しさという視点からも、過不足なくほどよくバランスの取れた「ちょうどいいもの」でした。」
言葉で書くのは簡単だけれども、こんなスタイルを目指すことは生半可ではないはず。
しかも彼は「建築家」という、「自己主張」をする必然性のある職業であるので尚更である。
そんな彼の作品集を、時間をかけてゆっくり眺めている。
この住宅に住む人は、この部屋でどんな生活を送っていてるのだろうか。
本を手に取りながら勝手に空想をする。
そうしてみて初めて気付くのだけれども、彼の「普通」は、どこか心地よい。
http://www.toto.co.jp/company/press/2010/05/25.htm
Subscribe to:
Posts (Atom)