Monday 19 December 2011

hang up his boots



また一人、憧れの選手がスパイクを脱ぐ。


宮本恒靖が、現役引退を表明した。

「まだ出来るのではないか」という思いもあるけれど、彼も来年2月で35歳。

決して、早まった決断ではないはず。



彼のプレーを初めて見たのは、97年のワールド・ユースだったか。

「こんなにかっこいい選手がいるのか!」

と、思ったことを覚えている。



「努力の人」だった。

会社員をしながら、弁護士を目指して家で夜遅くまで勉強している父と、英語教師の母に育てられ、「大学は行って当たり前」の家庭で育った。

大阪府立の進学校に通いながら、ガンバ大阪のユースチームでプレー。

勉強タイムは、練習場から家までの夜遅い電車の中。

「ヴェルディ川崎に入り、慶應大学に通う」か、「ガンバ大阪のトップチームに昇格し、同志社大学に通うか」を悩み、後者を選んだ。

英語教師の母から教わったという英語は堪能。

大学時代は第二外国語としてフランス語を、オーストリアのクラブに在籍中はドイツ語を熱心に学んだ。



ディフェンダーに要求される背丈、スピードのハンディをカバーしたのも、その「知性」だった。

決して「サッカーの天才」では無かったが、自分の能力を極限まで高めることに関しては、「天才」であった。


印象に残っているプレーは、やはり代表でのものか。

2002年、鼻骨骨折しながら黒のフェース・ガードを着けてプレーした「バットマン」。

2004年、アジアカップにおいて、ゴール前のグランド条件が最悪であることから、PKのゴールサイドを変えるよう、審判に英語で抗議した場面。

2006年、崩壊しているチームをなんとか立て直そうとしていた、苦悩のキャプテン・・・



所属クラブで出場機会が減少していたことから、引退の日がそう遠くないことは予感できた。

願わくば、「サッカー界に恩返しがしたい」などと引退会見で語りながら、テレビタレントのような仕事をしている元Jリーガーの真似をするのではなく、語学力・知性を活かしてイングランド、フランス、ドイツあたりで指導者としての勉強をしてきて欲しい。

彼のキャリア晩年のプレーを目にするたび、そんなことを思っていた。



引退会見を聞いて、安心した。

ヨーロッパに渡り、FIFAマスターというサッカーに関する修士号の取得、ヨーロッパで指導者ライセンスの取得を目指すという。

さすが恒様!

そう、あなたには「努力」が良く似合う。

お疲れ様でした。

http://www.jsgoal.jp/news/jsgoal/00130138.html

Sunday 11 December 2011

味の素



少し前のことになるが、J2の「FC東京×水戸」を、味の素スタジアムで見た。

もう10年以上前になるが、「家の近くに、東京スタジアムという立派なスタジアムが出来る」という情報を知り、胸をワクワクさせて、建設中のスタジアムを外から眺めたりしていた。

東京スタジアムは、いつしか「ネーミング・ライツ」という手法でスポンサーの名前を冠するようになったが、外観や芝生の美しさは、以前と変わらない。


「味スタ」に行くのは1年振りくらいだろうか。

「味スタ」をホーム・スタジアムとするFC東京と東京ヴェルディの試合を見に、学生の頃は毎週末通っていたのが、今となっては懐かしい。

今年は両チームともJ2という低落ぶり。

自然と足も遠のいていた。



そんな中、「FC東京×水戸」を見に行った理由は、両チームのベテランFWを見たいと思ったからだった。

FC東京のルーカスと、水戸の鈴木隆行。

FC東京とガンバ大阪に長く在籍し、日本語も流暢な「人格者」として知られるブラジル人のルーカスが、J2に降格した古巣のために、現役引退を取り下げて復帰するという報道は、僕の心を温かくした。

日本、ブラジル、ベルギー、セルビア、アメリカと渡り歩き、アメリカのポートランドにあるチームからコーチを打診されていた鈴木隆行。彼も一度、現役引退を決意したが、震災が彼の人生を変えた。財政難に苦しむ故郷のチームのために、無給のアマチュア契約。

そう、この試合は「一度は現役引退を決意したFW」の戦いでもあった。



J2を独走したFC東京と、中~下位に低迷する水戸との間には、明らかな力の差があった。

けれども、この日の僕には、そんなことはどうでもよかった。

チームのために、前線を献身的に走り回るルーカス。

途中出場ながら、体の強さを活かしたボール・キープで、攻撃を活性化させた鈴木隆行。

そして、以前と比べて、明らかにレベルが向上したバックスタンドのFC東京ファン。


時代は流れるけれども、悪いことばかりじゃない。

Tuesday 6 December 2011

ブラッド・ピットは本物のスターだ!


と、潔いタイトルを付けました。

噂の「マネー・ボール」を見たんですがねぇ。

いや、物語が単純化されてたり、深みが無かったりしたのは事実なんですよ。

けど、

「ブラッド・ピットが出てるから、まぁいいんじゃない?」

と思わせてくれる。

後味も悪くなく、誰からも嫌われない作品。

そう、まさにブラッド・ピット自身のよう。

ドトール


日本最大のコーヒー・チェーン店。

ではなく、サッカー選手の話。

ポルトガル語でドトールは、医者のことだそう。

ブラジル代表として、ジーコらと「黄金のカルテット」を形成し、周囲から「ドトール」と呼ばれ慕われていたソクラテスが、亡くなった。


個人的に、彼の現役時代のプレーは、何度かビデオで見たことがある位。

しかし、プロサッカー選手でありながら、サンパウロ大学医学部に通い、医者の資格を取った選手がいる、という事実を知ったときは、子供ながらに驚いた。

「キャプテン翼」で、天才的な才能を持ちながら、心臓病を抱えていた三杉くんは、「将来、ソクラテスのように、サッカー選手をやりながら医者になって、心臓病を治したい」と夢を語っていた。

その昔、ナカタヒデトシなんかとU-17日本代表でチームメートだった、イチキタロウという選手がいた。

将来を嘱望されていた彼は、ソクラテスに憧れ、ヴェルディ川崎に在籍しながら大学の医学部を何回か受験したという。残念ながら彼の夢は叶わず、現在はソニーのエンジニアだとか。

そう、文武両立を目指した多くのフットボーラーの憧れ・ソクラテス。

57歳。

早すぎる死だけれども、生き様は、きっと語り継がれる。

Sunday 30 October 2011

Jun

金曜日の仕事帰り、家の近くでジンギスカンを食していたところ、店内にウーアの歌声が流れ始めた。

ウーアといえば、僕がまだ学生だった2000年頃に、割と人気があった記憶がある。

ウーア、ミーシャ、あれ、あと一人「同じようなの」がいたなぁ・・・



結局、ジンギスカン屋では思い出すことが出来ず、家に帰ってインターネットで検索、ようやく脳のつっかえ棒が取れた。

バード。

そうそう、ウーア、ミーシャ、バード。

全く異なる3人だけれども、僕の中で彼女達は同じカテゴリーに属する。

はて、バードさんは、いまどうしているのかね?

と思いウィキると、

「えっ、あの人と結婚したの・・・」



ついでに「あの人」を検索した。

サッカーの国際大会の一つに「コンフェデレーションズ・カップ」と呼ばれるものがある。

ヨーロッパ、アフリカ、アジア、北中米、南米、それぞれの「大陸」チャンピオンが集まり、「世界王者」を決定する大会である。

本当の「世界王者」を決めるワールド・カップの前年に行われる前哨戦で、商業的な意味合いの強い大会である。

その「コンフェデ」に対する意見を求められた「あの人」は、こちらの期待を裏切らない見事な論説を展開してくれている。

まぁ、そもそも「あの人」に「コンフェデレーションズ・カップ」の予想をさせること自体が「意図的」ですよね。

http://www.1101.com/shimaguni/jun/index.html

Saturday 29 October 2011

red by red


東京で生活していて、「あぁ、いい景色だなぁ」と感じることは多くない。

それは疑いようのない事実であると同時に、都市で生活する上で知らずしらずのうちに身に着けている「意識の遮断」が、追い討ちを掛けていることも、また確かである。

それでも、良く晴れた秋の日に、国立競技場のバックスタンドから望む新宿のビル群は、悪くない光景だと思う。



「1万席限定」の抽選方式で運よく購入できた「ヤマザキナビスコカップ決勝 浦和×鹿島」。

送られてきたチケットは、運悪くバックスタンドとは正反対のメインスタンドだった。

新宿のビル群が見えない代わりに、僕の目の前に広がるのは、赤、赤、赤。

両チームとも赤色がチームカラーであることから、この2チームが対戦するときは、スタジアムがいつも真っ赤に燃え上がる。



試合の中身は、両チームともミスが目立ち、語るに値しないゲームであった。

ただ、「監督の采配」が色濃く試合結果に影響を及ぼした点は、興味深かった。

後半開始早々に山田直輝という攻撃的な選手が退場になったレッズは、前線にFWのエスクデロを残し、守りをガッチリ固める戦いを余儀なくされていた。

それに対し、アントラーズのオリヴェイラ監督は、

遠藤(MF)⇒田代(FW)

アレックス(DF)⇒フェリペ(MF)

と続けざまに交代を行う。


「さぁ、点を取りに行こう」


それは、監督からの明確なメッセージだった。

布陣は、4-3-3。



攻撃的MFのフェリペを左サイドバックに配置してしまうほどの攻撃的な布陣。

ところが、後半修了間際に、センターバックの青木が退場になってしまう。

これだけ攻撃的な布陣を取っていながら、センターバックを欠いてしまったら、世界中のサッカー監督の多くは頭を抱えるだろう。そして、貴重な最後の交代枠は、FWに変えてDFという、あまり乗り気のしないものになってしまう筈だ。

オリヴェイラ監督が出した結論は、こうだった。

小笠原(MF)⇒増田(MF)

「う~む、そうきたか・・・」

メインスタンドの最前列に座る僕はうめいた。


FWを減らす代わりに、攻撃的センスの光る柴崎をサイドバックに据え、サイドバックを努めていた新井場がセンターへ移動。

1人減った中盤は運動量が要求されることから、ベテランの小笠原に変えて、働き盛りの増田を投入。

驚きだったのはDF陣。

フェリペ(攻撃的MF)、中田(守備的MF)、新井場(サイドバック)、柴崎(守備的MF)

4バックの誰しもが、本来の専門職ではないポジションを、何事も無かったかのようにこなしていた。(まぁ、この4バックを崩せないレッズの攻撃陣も不甲斐ないとは思うが・・・)

そして、延長前半の大迫の決勝ゴール。

決勝戦のMVPは、いつもの如く得点者の大迫が選ばれた。

けれども、僕には急造のディフェンス・ラインを涼しい顔をして統率した中田浩二が、この日のMVPに最も相応しい人物のように思えた。



ハーフタイム、大好きなカメラマンの近藤篤さんがスタジアムの中を歩いていたので、「近藤さん!」と最前列から声を掛けたが、歓声にかき消された。

彼は長年、レッズの写真を撮り続けている。

試合終了後、優勝の歓喜に沸くアントラーズの面々を横目に見ながら、カメラ機材を抱えて帰路に着く近藤さんは、心なしかグッタリしているように思えた。

Tuesday 4 October 2011

町内会



診察室のドアを開けると、そこにはいつもスタジオ・ジブリのカレンダーがあった。



実家から歩いて10分ほどのところにある、小さな内科クリニック。

70を優に超えていると思われる医院長先生と、スタジオ・ジブリのイメージがどうしても結びつかなくて、何だかいつもおかしかった。


何故、ジブリのカレンダーを飾っているのかは分からないのだけれども、そのクリニックから歩いて数分のところに、「スタジオ・ジブリ」は居を構えている。

同じ町内だからなのか、コンビニに置いてあるジブリ・グッズなんかと比べて、診察室の壁に掛けてあるカレンダーは、何だか若干誇らしげに見えた。



個人的にジブリ作品の大ファン、という訳ではない。

子供の頃は、数え切れないほど作品を見直していたけれども、いつの頃からか、新作が発表されても、テレビやDVDで見たり見なかったり。

そんな状況だから、ジブリの新作「コクリコ坂から」を見ようと思ったのも、「何となく」であった。

考えてみると、最後にジブリ作品を劇場で見たのが、姉に連れられて行った「魔女の宅急便」。

オー・マイ・グッネス。あれから20年以上経っている。


1960年代の横浜に住む高校生2人を主人公にしたこの作品。

決してドラマ性に富むわけでもなく、ストーリー展開を期待する人は肩透かしを食らうかもしれない。

けれども、「何も起こらない」日常を丁寧に描いているからか、小津安二郎の映画を見たときのような感情が、僕の心に少しだけ溢れ出た。

http://kokurikozaka.jp/

Sunday 2 October 2011

Come on, son. Hit me!



大学2年生の頃、とあるシネマ・コンプレックスのアルバイト採用面接を受けた。

何故そこで働きたいと思ったのか、今となっては理由を全く思い出せない。

思い出せないけれども、そのシネコンの社員と思われるおじさん数名と会話した記憶はある。

数日後、封筒が送られてきて、中には「今回はご縁が無かった」なんて類の通知文と、そのシネコンのフリーチケットが1枚同封されていた。

その時期、特段見たい映画は無かったのだけれども、ガダルカナルにおける日米の戦いを描いた「シン・レッド・ライン」と題するアメリカ映画を、何気なく選んだ。




後で知ることになるのだけれども、監督のテレンス・マリックは1970年代に「地獄の逃避行」「天国の日々」という2作品を発表し、共に大絶賛されながらも、その後20年間、映画を1本も作らなかった、まさに「生ける伝説」のような人物であった。

事前情報を何も得ずに見た「シン・レッド・ライン」は、とにかく上映時間が長く、「まだ終わんないのかなぁ」などと何度も思いながら見ていた。

映画の内容は正直、良く分からなかったのだけれども、映画館の外に出て、この映画のことを振り返ってみると、何か心に引っ掛かるものがあった。

後日、レンタル・ビデオ屋で彼の前2作品を見てみた。

言葉ではうまく表現出来ないが、彼の作品は僕の心を揺さぶった。

いつからか、僕は彼の「信者」となっていた。



ポカホンタスという名のネイティブ・アメリカンと、イギリスの冒険家との間の悲恋を描いた「ニュー・ワールド」に引き続き、監督5作品目「ツリー・オブ・ライフ」で彼が描いたのは、1950年代におけるアメリカの1つの家族の物語であった。

主演はブラッド・ピットとショーン・ペン。

昨年のカンヌ映画際では、最高賞のパルムドール。

信者としては、期待が嫌が応にも高まった。



最高潮に高まった期待は、映画館でくじかれた。

「シン・レッド・ライン」を初めて見たときに感じた、「まだ終わんないかなぁ」という感情以上の物が、僕の心を渦巻いていた。

「何なんだ、この映画は。遂に血迷ったか・・・」

感想を一言で言うならば、「意味が分からない」であった。



信者として、このまま終わるわけにはいかない。

後日、再度映画館に足を運んだ。

何故、「意味が分からない」のか、意味が分かった。

「ツリー・オブ・ライフ」は、極めてユニークな作品だった。

僕らが無意識に求めてしまう、ストーリーの「起承転結」なんていうものは、完全に放り去られていた。

一般的な家族の、ごくありふれた「日常」を描いただけでありながら、家族や生命の繋がりを意識させる「非日常」的な芸術作品であった。


しかし、「ベンジャミン・バトン」で「これでもか」という美男子を演じてみせたブラッド・ピットが、「ツリー・オブ・ライフ」で見せた厳格な父親役とのギャップは、まさしく驚嘆。

Friday 23 September 2011

おすぎ



その昔、テレビの映画プログラムで長いことプレゼンターをやっていたヨドガワ先生が、こんなことを言っていた。

『紹介する映画が、何も語るに値しない場合だってある。そんな時は、「あのシーンが素晴らしかった」とか、「あの俳優のこんな仕草が良かった」などと、何でもいいから褒められるものを探す』と。


日本の大手メディアによる映画評、音楽評を読んだり聞いたりしても、皆本当のことを記さないので、参考にならないことが多い。

例えば映画業界なんかは、一種のコミュニティが出来上がっている。

試写会には、毎回同じ評論家、業界関係者などが集まる。

当然、人間関係が少なからず形成されるので、評論家の人たちも、いつもお世話になっている人たちが携わっている映画の悪口は書けない。

そして、そんな状況を理解し始めた読者やリスナーは、評論家・専門家と呼ばれる人間たちを信用しなくなる。

全く持って悪循環。



そんな狭い業界にいるにもかかわらず、テレビ・タレントとしても名をはせるあの方は、作品をはっきりとこき下ろす。

そんなあの方が、「今年No.1! 見逃したら一生損する」

と語ったらしい、ロマン・ポランスキー監督の「ゴースト・ライター」を見た。



いやはや、見逃したら一生損するとは思わんが、よく出来た作品であった。

それにしても、ユアン・マクレガーは、米国人よりも英国人役の方がしっくりくる。

彼のブリティッシュ・アクセントを久しぶりに聞けたことも満足でした。

「今年No.1! 見逃しても損はしないけど、ユアン・マクレガー好きにはたまらない作品」

http://ghost-writer.jp/

Tuesday 20 September 2011

fairness



バンクーバーに住む人の多くはフレンドリーだと思う。

ただ、皆が皆、オープン・マインドで、明るくて陽気な人か、と言われると、そうではない。

ラテン・アメリカの人々なんかが醸し出す底抜けの陽気さは、カナダ人にはない。


陽気さが、その場を一瞬盛り上げるものだとしたら、フレンドリーさは、じわっと心に染み入るものではないだろうか。


帰りの飛行機に乗るため、泊まっていたB & Bの近くからバスに乗った。

大きな荷物を抱えている僕に対し、運転手さんが何かを尋ねた。

'Pardon?'(何ですか?)

不意の問いかけだったので、そう聞きなおすと、「どこまで行くんだい?」と言ったようだった。

「東京までだよ」と答えると、

「ほ~、そりゃぁ随分長いフライトだな」



荷物が多いので、バスの前の方で空いている席に座った。

その運転手さんは、乗車してくる一人一人に、しっかりとした挨拶をしている。

途中、高校生と思われる若者が一人、バスに乗ってきた。

例によってその運転手さんは、その若者に笑顔で「調子はどうだ?」と問い掛ける。

かったるそうな、だるさ全快のその若者は、面倒くさそうに小声で '....good' などと返す。


色々なお客さんが乗車してきて、彼のフレンドリーな挨拶に対し、人それぞれの対応を返す。

乗車している間、彼の振る舞いを何となく眺めていたけれども、彼はどんなお客さんに対しても、公平に、同じようなフレンドリーさで接していた。

彼を一言で表現するなら、「フェア」だろうと思う。

彼のような「フェア」な人間が、バスの運転をしている。

そんな事実が、この街が魅力的であり続ける原動力のような気がした。


最寄の駅に着き、バスを降りる際に'Thank you, sir'と礼を言うと、素敵な笑顔で'Have a good flight!'と返された。

旅の終わりに、彼と出会えて良かった。

Monday 19 September 2011

a modest man at a modest house




「日本人のお客さんは初めてね。どうやって見つけたの?」

「う~ん、確か'BB Canada'っていうウェブ・サイトかな」




たとえ短期間の旅行であっても、ダウンタウンに宿を取るよりも、少し離れた住宅街に泊まった方が、本当のバンクーバー・ライフを味わえる。

昔、この街に暮らしていた経験から出した結論だ。

'BB Canada'というサイトでこの宿を見つけたとき、最初に惹かれたのは、その立地に加え、値段の安さだった。

「こんなに安いということは、お化け屋敷だったりするか、はたまたオーナーが凄く嫌な奴だったりするのだろうか・・・」

都会人らしい疑いの目でウェブ・サイトのレビューを隈なく見たが、そのどれもが賞賛するものばかり。

結局、そこに3泊する予約を入れたけれども、実際に訪れるまでは、半信半疑だった。



ドアの中から出迎えてくれたのは、僕よりも若いと思われる女性オーナーだった。

彼女の優しい笑顔を見て、僕の心の中にある都会的な疑いの塊が、ようやく溶け出した。


今年オープンしたばかりというそのB & Bは、こじんまりとした、家庭的な宿だった。

オーナーが、ファーマーズ・マーケットで買ってきた食材を素に作られる朝食は、質素だけれども贅沢。



願わくば、若いにもかかわらず、一人で店を切り盛りするオーナーが、燃え尽きたりしないといいのだけれども。

そんな心配をしてしまうくらい、素敵なB & Bだった。

バンクーバーに次回訪れるときも、まだ彼女が元気で運営してますように。

http://www.casamatea.ca/

Sunday 18 September 2011

less than one dollar


高い品質のアウトドア・プロダクトをリーズナブルな価格で提供してくれるMountain Equipment Co-op (MEC)。

カナダ人の1人に1個は持っている、と言われたら信じてしまいかねない、もはや国民的ブランドである。

中でもバック・パックの種類の豊富さには、毎回驚かされる。

今回の訪問中にひときわ気になったのが、この商品。

しっかりとしたキャンバス地で作られていながら、フォルムもキュート。

そして、お値段は驚きの29ドル!(テレビ・ショッピング風)



買おうかどうか随分迷ったけれども、東京では沢山のバック・パックが僕の帰国を待ちわびているので、今回は泣く泣く断念。


「この商品のオリジナルは、1981年に25ドルで売り出されました。仮に、あなたがまだそのカバンをお持ちなら、1年1ドル以下のお値段だったということです。」

う~む、プライス・カードの下に記してある説明文も、にくいぜ!

http://www.mec.ca/Main/home.jsp

Saturday 17 September 2011

capers



バンクーバーではファーマーズ・マーケットが毎週各地で行われているほか、街中にも至るところにオーガニック・スーパーがある。

それはすなわち、農薬を沢山使って大量に食物を生産する既存のシステムを、多くの人が信じなくなってきている表れである。


オーガニック・スーパーの代表格はCapersというお店。

ダウンタウンやキツラノと呼ばれる高級住宅地なんかにあって、いつも沢山の人で賑わっている。

日本でも徐々にオーガニック・スーパーは増えてきたけれども、やはり本場は規模が違う。

店内にいると、あれもこれもと欲しくなって大変である。



今回泊まったB & Bの近くに、アメリカ資本のWhole Foods Marketというオーガニック・スーパーがあったので中を覗くと、店員さんが'Whold Foods Market' と'Capers'の両方の名前が記してあるエプロンをつけていた。

疑問に思って聞いてみると、

「何年か前に、CapersはWhole Foods Marketに買収された」

とのこと。

何だか少し寂しかったけれども、僕のようにナイーブな住民の感情を考慮してか、既存のCapersの店名は残しているとのこと。


ある日、朝食を食べにWhole Foods Marketに行くと、早朝ということもあり、さすがにガラガラだった。

のんびりした店内で、店員さん達もリラックスして働いている。


スープや野菜なんかを選んでレジに並ぶと、Tシャツに半パンを履いた20歳くらいの青年が対応していた。

店内に流れる音楽に合わせて、軽くダンスなんかをしている。

会計を済ませると、そのアンちゃんは左手の人差し指と親指を立たせ、拳銃を撃つような真似をしながら、

'Have a good day!'

と言って来た。

彼のその仕草が妙におかしくて、朝から心が和んだ。

http://www.wholefoodsmarket.com/capers/

Saturday 10 September 2011

J.J.


この旅のことをブログに載せよう。

カナダから帰ってきて、そう思い立った。

一つだけ困ったことは、僕は普段、あまり写真をバチバチ撮る人間ではないこと。

ブログのことを想定していなかったので、如何せん使える写真が少ない。

今回の写真も、ウェブ・サイトから拝借しました。




バンクーバーの市内だけれども、ダウンタウンからは少し離れた場所に、メイン・ストリートという名の通りがある。

雰囲気のあるカフェやショップ、古本屋なんかが立ち並び、街を行き交う人々も、他のエリアと比べて心なしかお洒落。

商業的には全く「メイン」ではない通りだけれども、文化的には全くもって「メイン」である。



バンクーバーのお洒落な人は、高いブランド品なんかを買う、というよりは、自分に似合う洋服を把握している人が多いような気がする。

靴がかわいかったり、鞄がクールだったり。

けれども、そんな「センス」なんかより、もっと大事なことは、「愛想」だなぁとつくづく思う。


それは、お店にも言える。

どんなに高い理想を掲げて、良い食材を使って、美味しい物をサーブされても、店員さんが無愛想なお店だと、「もう一度来よう」とは、なかなか思わない。



全てオーガニック、かつフェア・トレードのコーヒーを扱っているJ.J. Bean。

コーヒー豆の卸だけでなく、カフェも何店舗か運営している。

メイン・ストリートにあるカフェは、店の真ん中に暖炉が居座り、冬になると暖を求める客が新聞片手にコーヒーを飲んだりしている。

しかも、ここの店員さんは昔から自由な雰囲気を醸し出し、楽しそうに働いている人が多い。



やっぱ、「愛想」でしょ。

「理想」は二番目。


http://www.jjbeancoffee.com/

Jose


迎えてくれたのは、どこか東洋的な雰囲気を持つビバリーという名の女性だった。

彼女の温かい出迎えを受けた瞬間、部屋に入らずとも、そのB & Bでの滞在が心地良いものになることは、容易に想像できた。



ソルト・スプリングで作られたチーズ、ブルーベリー、卵なんかを用いて彼女が作る朝食は絶品。

さすがに、ニューヨークで菓子職人として働いていたというだけのことはある。

「朝からこんな美味しいものを食べていいのかね?」

などと考えながら、モグモグ。



ある朝、同じテーブルに座った男性と話をしていたら、アメリカのボルダーという街に住むスペインからの移民であることが分かった。

その瞬間、僕らの会話はfootballに。

「今のレアル・マドリーをどう思う?モウリーニョのサッカーはつまらない!」

マドリッド出身の彼は僕に同調を求めるが、如何せん、我が家にはテレビすらない。

「う~ん、まぁ彼のサッカーは退屈だけどさ。けどまぁ、彼はハンサムだし、華があるよね」

などと適当に会話をごまかした。


しかし、ソルト・スプリングでモウリーニョの話をするなんて、思ってもみなかった。

http://www.wisteriaguesthouse.com/index.html

Tuesday 30 August 2011

drive



バンクーバーの街中では、本当に日本車が多い。

ひょっとしたら、日本の高級住宅地における国産車の割合よりも多いくらいかもしれない。

日本との違いは、まずマツダの人気が高いこと、ホンダの高級ラインであるアキュラが走っていること、それと当然の事だけれども全て左ハンドルであること。


仕事ではよく運転をするのだけれども、プライベートではとんと興味が無い。

だからか、今回のソルト・スプリング島での運転が、海外での初体験となった。

普段の癖で逆車線を走ってしまい慌てて戻ったり、ウィンカーを出すつもりがワイパーが動きだしたりはしたけれども、島には一つも信号が無いほどだし、慣れてくるに従って、徐々に運転が楽しくなっていった。

チーズ工房やカフェなんかを回った後、お昼は高台にあるパン工房でブルーベリーパイを。

「これでもか」という位のブルーベリーが上に載っていて、大満足。



窓を開けて、何気なくチューニングしたラジオから、良い感じの音楽が流れてくる。

Neil Young, Ron Sexsmith, Metric, Feist....

心なし、いや、明らかにカナダ人ミュージシャンの割合は高かった。

カナダの大自然に囲まれながら聞くFeistは、気持ちよかったなぁ。

Monday 29 August 2011

tree house


ソルト・スプリング島は、バンクーバーからフェリーで1時間半ほどのところにある。

今ではすっかり観光地されてしまったけれども、その昔、都市生活を否定するヒッピーやアーティストが多く集まり、島は独自の文化を形成したよう。

島には公共交通機関がほとんど無く、車を運転するか、ヒッチ・ハイクを行うのが一般的だとか。

さすがにヒッチ・ハイクをする気は無かったので、島で車を借りることにした。


レンタカー屋さんのおじさんは、マイケル・J・フォックスがそのまま50歳くらいになっちゃったような(まぁ、マイケル自身も既に50歳くらいだけど)ルックスだった。

彼にお勧めのレストランを聞いたら、

「Tree Houseがいいよ」とのこと。

早速、フォードに乗り込んで、Tree House という名のカフェへ向かうことに。


カフェの真ん中に大きな木が生えている、その名の通りのTree Houseに入ると、カナダの至宝Neil Youngの曲が流れていた。

名物のハンバーガーは、中身のお肉だけでなく、パンまでもが本当に美味しかった。

うん、ソルト・スプリングでの旅も、悪くなさそうだ。

http://www.treehousecafe.ca/

Sunday 28 August 2011

David Beckham



バンクーバーのプロ・スポーツと言えば、アイス・ホッケー(カナックス)とカナディアン・フットボール(ライオンズ)であった。

北米有数の大都市でありながら、プロ・スポーツのチームが少ない理由の一つに、「スポーツは観るものではなく、するもの」という意識があるとか。

そんな街にホワイト・キャップスというサッカーのチームができ、今年から北米のメジャー・リーグ・サッカー(MLS)に加入した。

MLSと聞いて、サッカーファンの誰しもが思い浮かべるのが、デビット・ベッカム。

そのベッカムが所属するロサンジェルス・ギャラクシーが、滞在中にバンクーバーで試合をする。

そんな情報を知ってしまったら、どうやってチケットを買わずにいられますか?



という訳で、試合の一月ほど前にはチケットを購入し、意気揚々とバンクーバーに向かった。

メディアを通じて入ってくる彼の生活はセレブリティそのものだけれども、こと本業に関しては、真剣なトレーニングと体のケアを入念に行う、正真正銘のプロだと言われている。

この夏で36歳になる彼が、全盛期のキレはないにせよ、トップ・レベルのプレーヤーであり続けられる所以である。



ところが、試合の数日前に読んだ新聞に「ベッカムはバンクーバーに来ない」とある。

なんでも、前節のゲームでイエロー・カードを貰い、累積枚数によって次のゲームが出場停止になったとか。

イエロー・カードを試合終了直前に貰ったことなどから、カナダのメディアは「ベッカムはカナダに来たくないから、故意にイエロー・カードを貰ったのではないか」などと真剣に議論していた。

そんな議論まで巻き起こしてしまうベッカムは、やはり本当のスターである。



肝心の試合のレベルは、Jリーグと比べても劣っているのが一目瞭然であった。

ベッカムが、MLSのオフ・シーズン(冬)に、「ヨーロッパのクラブにローンで出してくれ」と毎年駄々をこねている理由も分かる気がする。




ところで、ホワイト・キャップスのジャージーはとにかく格好いい。

おまけに、左袖にはカナダ国旗。

試合当日は朝からジャージーを着た人々が街をうろついたりしており、バンクーバーにもサッカー文化が根付きつつあることを認識した。

スタジアムでも多くの人が着ており、僕の購買欲は頂点に。

だが、そのジャージーは1枚120ドルほど。

「どうするかなぁ」

ハーフタイム、真剣に悩みながらスタジアムの外を歩いていたら、マジックでジャージーそっくりに書いたTシャツを着た兄ちゃんがいた。

胸には手書きのアディダスのマーク、スポンサーのBell(カナダの通信会社)まで記してあった。

「ははは、それクールだね」

と声をかけたら、彼もまんざらでもなさそうだった。

彼が着ていた、恐らく10ドル程度のジャージーが、他の人が着ている、どのオーセンティック・ジャージーよりも格好良かった。

そのクールなTシャツを見たら、120ドルのジャージーは、どうでもよくなっていた。

Saturday 27 August 2011

oh my canada


5年振りに帰ったカナダは、やっぱり人が温かかった。

夏休みを取って訪れたのは、西海岸のバンクーバーとソルト・スプリング島。

少し前のことだけれども、旅の記憶として、その期間の日記を記せたらと思う。


成田からバンクーバーへの直行便が既に売り切れだったことから、内陸のカルガリーを経由するルートのチケットを買った。

カルガリーでの乗り継ぎ時間は1時間半ほど。

しかし、カルガリー空港で待てども待てども荷物が来ない。

バンクーバーへ向かう便の搭乗に間に合わないのではないか。
まさかのカルガリー1泊も頭をよぎった。

結局、予定の便には間に合わずも、カルガリー⇔バンクーバーは1時間に1本ほど運行しているらしく、次の便に乗れることとなった。

が、荷物は遂に現れず。

バンクーバー空港で、ナショナル・エアライン(まぁ、簡単に言うとエア・カナダ)の職員に苦情を言うも、同情のかけらも示さない。

「こんなサービスだから、何回も潰れんだよ(エア・カナダのこと)」などと空港でプリプリしながらも、取りあえずバンクーバーに無事到着。

旅行期間中、荷物が全く無い最悪の事態も想定したけれども、その日の夜中、泊まっていたB & Bのドアがノックされ、荷物が届く。

「旅行期間中の悪運を使い切った」と考えることにした(そして実際、これ以外に嫌なことなんて、何一つ起きなかった)。

日本に帰国後、エア・カナダに苦情を入れると、丁重な対応。

うむ、この姿勢をカナダの空港でも見たいぜよ。

Thursday 25 August 2011

will

Jack Laytonというカナダの政治家が、癌のために亡くなった。

その記事を新聞で読むまで、彼のことを知らなかった。

ひょっとして名前くらいは聞いたことがあったかもしれないが、少なくとも、記憶の中には無かった。

カナダの最大野党を率いていた彼は、国民の誰からも愛された。
たとえ彼の政治思想に共感が出来ない人でも、その人柄には誰しもが好意を抱いた。

記事には、そう書いてあった。



死を覚悟した彼が、カナダ国民に向けて記した遺書を読んだら、何だか心の奥底がうずいた。

日本では、そこかしこで「感動した」という言葉が使われるが、英語では普段、'moved'よりも軽めの'touched'がよく使われる。

けれども、この遺書は僕の心を'moved'させた。

特に、カナダの若者に宛てた段落は素晴らしかった。

I believe in you.
Your energy, your vision, your passion for justice are exactly what this country needs today.
You need to be at the heart of our economy, our political life, and our plans for the present and the future.

僕は君達を信じている。
君達のエネルギー、ビジョン、正義への情熱は今日、まさしくこの国が必要としているものだ。
君達はこの国の経済、政治、そして現在と未来にわたる私達のプランの中核である必要がある。



そして、遺書はこう締めくくられる。


My friends, love is better than anger.
Hope is better than fear.
Optimism is better than despair.
So let us be loving, hopeful and optimistic.
And we’ll change the world

親愛なる友よ、愛は怒りよりも素晴らしい。
希望は怖れよりも素晴らしい。
楽観主義は絶望よりも素晴らしい。
だから、愛情を持って、希望を持って、楽観的になろうじゃないか。
そうすれば、僕らは世界を変えられる。



http://www.cbc.ca/news/politics/story/2011/08/22/pol-layton-last-letter.html

Saturday 20 August 2011

without Noel

ほとんどの曲を書いてきたNoelが脱退し、oasisは無くなった。

彼を除くメンバーで形成されたBeady Eye。

oasis時代よりも更にクラシックなロックの追求。

そして、John Lennonへの強烈な愛。

デビュー・アルバムを買ってはみたが、少し単調に思えてほとんど聞いていなかった。

けれども、こんなにクールな曲がアルバムの最後の方に隠されているとは。

I love Liam!



Saturday 6 August 2011

マツ

マツダ・ナオキが倒れた。

その一報を知ったのは、夏季休暇で訪れていた海外のB & B で、パソコンを開いたときであった。



高さ、速さ、強さ、そして判断能力。

ディフェンダーとしての能力を全て持ち合わせていた彼は、日本サッカー史上に残る好選手であった。

彼は日本のパオロ・マルディーニであった。

加えて彼には、恵まれた容姿と明るいキャラクターという天性のギフトが備わっていた。



スタジアムやテレビを通して、彼のプレーは数多く見てきたけれども、一番印象に残っているのは、2001年にパリで行われたフランス代表との親善試合である。

雨が降りしきるサンドニ・スタジアムで、当時の世界チャンピオン・フランスに日本は0-5と大敗した。

日本代表メンバーの中で、フランス代表と互角に戦っていたのは、当時イタリアで活躍していたナカタだけであった。

砂質土が多い日本とは異なり、ヨーロッパの地盤の多くは粘性土であり、幼い頃よりそのような環境でプレーをしているヨーロッパの選手と比べると、日本の選手は足腰の筋肉が弱いとされている。

当日の大雨で、まるで田んぼのように泥まみれのスタジアムで、マツダ・ナオキはジダンやアンリといった世界最高峰のプレーヤーに、面白いようにクルクルと振り回されていた。

あのマツダでも、ここまでやられるのか・・・

その光景は、僕には衝撃であった。



もう、マツダ・ナオキのプレーを見ることは出来ない。

けれども、僕の心の中には、マリノスのサポーター達が彼を鼓舞する歌声が、これからもきっと流れ続ける。

「ナ~オ~キ、ナ~オ~キ」

と。

Sunday 19 June 2011

obsession

英語に'obsessed'という言葉があって、日本語に訳すと「取り付かれている」ってな感じだろうか。

'They are obsessed with collecting'

そんな言葉がピッタリの夫婦をドキュメントした映画「ハーブ&ドロシー」を、東京都写真美術館で見た。
http://www.herbanddorothy.com/jp/index.html

夫(ハーブ)は郵便局職員、妻(ドロシー)は図書館司書。

ニューヨークに住む、夫婦揃って慎ましい職業に就く彼らは、生活費以外のお金を全て、現代アート作品の収集に費やす。

その数、数千点。

ついに、自宅のアパートに収納出来なくなったため、作品をアメリカ国立美術館に寄贈する。

彼らが少しでも「まともな」生活を送れるようにと、美術館側はお礼を贈呈するが、そのお金で彼らは新たなアート作品を買ってしまう。

そう、彼らを表すには、'obsessed'ほど適当な言葉は無いようにすら思える。



郵便局で働くハーブの元同僚が、彼をこう表現していたのが面白かった。

「物静かでシャイな男だったよ。彼がアート界では有名なコレクターであることなんて、誰も知らなかった。」

Sunday 12 June 2011

kore-eda

映画を見ることはそれなりに好きなのだけれども、見ることが目的にならないように気を付けている。

仕事ではなく、あくまで楽しみなのだから、興味のある映画を週に1本でも見られれば、それで十分だと思っている。

そんなスタンスなので、当然のことながら、いままで見たことの無い名作は山ほどあり、言わずもがな、見たことの無い駄作映画は無数にある。


いつの頃からか、映画を選ぶ基準として、テーマや出演者に加え、監督の名前が加わるようになった。

とは言っても、作品が公開されるたびにチェックする監督は数人しかいない。

そのうちの一人、是枝監督の「奇跡」を、吉祥寺のバウス・シアターで見た。


古き良き日本映画を思わせるようなデビュー作「幻の光」を見たのは、高校生の頃だったか。

死を迎える人々に対し、「人生の中で、最も素晴らしい体験」を聞き、その状況を再現することで死者を送り出す、というユニークな設定の施設を描いた作品「ワンダフル・ライフ」。

そして、異様なまでに哀しく、異様なまでに美しい「誰も知らない」。

彼の作品の何が僕を惹きつけるのか、明確な理由は分からない。

けれども、彼の映画作りに対する真摯な姿勢が、僕の心を動かし続けることは確かだ。


「奇跡」は、ストーリーだけを評価するのであれば、名作とは言えないのかもしれない。

けれども、僕は映画を見ながら何回も笑って、たまに悲しくなって、そして最後は気持ちが晴れやかになった。

そう、この作品には、映画を見る醍醐味が詰まっているような気がする。

http://kiseki.gaga.ne.jp/

Thursday 9 June 2011

a depth of a man

人間の本質や本性は、いくら他人や本人が分かったつもりになっていても、本当のところは分からないものではないだろうか。

予期せぬ困難に出会ったとき、自分ではよく知っていると思っていた相手が、思いがけない行動に出る、なんてことは十分に起こり得る。

だから、人間の本当の「器」なんてものは、なかなか推し量ることが出来ない。

けれども、他人からどう言われようとも、自分の頭で考え、自分のキャパシティーを広げようとしている人間に対して、僕は親近感を持つし、僕自身もそんな人間でありたいと思っている。



ブラジル、ベルギー、セルビア、アメリカ。

年収や安定には見向きもせず、「ここではないどこか」を探して彷徨い続ける彼の情報を目にするたび、何とも表現し難い感情が、僕の心をうずいた。

ひょっとして彼は、「死に場所」をさがしているんじゃないか。

いつの頃からか、僕はそう思うようになった。

そして彼は、「死に場所」として、故郷のクラブ・チームを選んだ。



35歳になった彼の顔には、自分の頭で考え、行動してきた深みが出てきたように思えてならない。

たとえ、僕が彼の本質を知ることは出来ずとも。

http://number.bunshun.jp/articles/-/12503

http://www.mito-hollyhock.net/www/news/index.cgi?no=756

Sunday 29 May 2011

まぁいいか。

商品自体よりも、商品を売るお店に惹かれて買物をする、なんてときがある。

本や雑誌なんかはその典型で、コンビニに並んでいるときは買う気にならずとも、雰囲気のある本屋の店内で眺めていると、ついつい買ってしまう時がある。

僕にとって、吉祥寺のバウス・シアターという映画館は、そういう本屋さんと似ているところがある。

単館系の映画が封切されて数ヶ月経つと、「ひょこひょこひょこ」とバウスに現れ、僕のような会員に対して1000円で上映してくれる。


サム・メンデス監督の「お家をさがそう」という作品は、他の映画館で上映されていたことすら知らなかった。

けれども、『数ヶ月すると子供が生まれてくる予定の30代カップルが、「ここではないどこか」を探して北米中を放浪する』という荒筋を読んだら、何だか親近感が沸いてきた。

http://www.ddp-movie.jp/ouchi/index.html

「1800円なら絶対に見ないけれども、1000円ならまぁいいか」

そう思い、土曜日のレイト・ショーに向かった。

そこには、こんなご時勢に、単館系の良い作品を上映し続けてくれるバウス・シアターへの感謝の気持ちも入っていた。



作品自体は、特別面白い訳でもなく、はたまた、特別つまらない訳でもなかった。

まさしく、「1000円ならまぁいいか」。

作品よりも、サウンド・トラックが気になった。

Alexi Murdochというフォーク・シンガーの唄う'all my days'が、家路に着く間、頭の中をずっと流れていた。


Sunday 8 May 2011

coming back



「5人目のビートルズ」ことスチュワート・サトクリフを描いた映画「バック・ビート」を見たのは、中学生の頃であった。

音楽よりも絵画を描くことに喜びを見つけ、ビートルズを脱退したアウトサイダーを演じたスティーブン・ドーフは、それはそれはカッコよかった。

スターの座を約束されていた筈の彼が、その後、これといった作品に出演しなくなったのは不思議であった。

その後のキャリアが、当時同様にスターであったジョニー・デップやブラッド・ピットのようにはいかなかった理由は、知る由も無い。

ソフィア・コッポラ監督の「somewhere」で、自身を投影するような役者の主人公を演じている彼を久しぶりに見た。当然のように、彼は既に若くなく、髪の毛も薄くなっていた。

けれども、彼の醸し出す雰囲気は、若さに勝る渋さが備わっていたように思う。

http://www.somewhere-movie.jp/index.html

Saturday 30 April 2011

less than one

フロリダにいたある夜、一人レストランで食事をしていたら、同年代と思われる店員さんが話しかけてきた。

「君は何ヶ国語喋れるんだい?」

と尋ねる彼に、

「日本語と英語の2ヶ国語だけだよ。」

と答えてから、果たして自分の英語力を、「1」とカウントしてよいものなのかどうか、疑問に思った。

「いや、1.5くらいかな。」

そう言い直した後、二人して少し笑った。



アーサー・ビナードさんの新著「亜米利加ニモ負ケズ」を読んでいたら、そんなことを思い出した。

いやはや、彼の記す日本語を読んでいると、果たして僕の日本語能力は「1」を満たしているのだろうか、などと考えてしまう。



因みに、フットボール界のスーパー・スターであるディヴィッド・ベッカム氏はその昔、マンチェスター・ユナイテッドからレアル・マドリーへの移籍が決まった際、「スペイン語は勉強するの?」というメディアからの問いに、こう答えたとか。

「いや、僕は英語すらろくに喋れないから。」

http://www.web-nihongo.com/column/haragonashi/index.html

Sunday 17 April 2011

nothing else but football


幼少の頃、ありんこが自分の体を這ってきただけで泣いてしまうような、弱虫の甘えん坊でした。

それは、今でも変わりません。

人が生まれながらに持った性質というものは、簡単に変わるものではありません。

ただ、僕はサッカーを通して、気持ちを強く持つことの大切さを学びました。

個人の才能というものは、何もせずして天から授かるものと、何かを突き詰めることで初めて得られるものの二つがあることを学びました。

「東北サッカー未来募金」で集められたお金は、被災した地域に住むサッカー少年達のために使われます。ボールやスパイク、その他の用具なんかが揃えられるために。

◆ 七十七銀行利府支店 普通 5337623
  東北サッカー協会義援金
口 代表社団法人宮城県サッカー協会

http://www.miyagi-fa.com/

趣旨に賛同される方がいらっしゃいましたら、ご協力をお願いします。

Wednesday 6 April 2011

needless to say

それが自分の東北人気質のせいなのかは分からないのだけれども。

言葉で表現することよりも、背中で語ることの方が大事だと長らく思ってきた。

流石にこれまで、多くの失敗をしたお陰で、自分の意志を表現することの大切さを学んできたけれども。

やっぱり日本人だから。

言葉にしたら、すぐに壊れてしまうこともあるんじゃないだろうか。

日曜日の夕刻、代官山のカフェで流れていたこの曲を久しぶりに聴いたら、そんなことを思った。


Wednesday 30 March 2011

職人と闘将


地震が起きてから。

「何か手助けをしたい」とは思いつつも、自分の心と体のバランスをとることに精一杯だった。

それは今でも変わらない。

簡単に言うと、何も手助けをしていない。


募金をしようかと何回か思ったけれども。

そのお金が、一体どのような形で使われるか、具体的なイメージが出来なかった。

簡単に言うと、募金すらしていない。



そんな折、写真家・近藤篤さんの日記を読んだら、涙が出そうなくらい感動した。

そうか、こんなことも出来るのか。


http://atsushikondo.com/notes/2011/03/no-1-%e3%83%9f%e3%82%b3%e3%83%8e%e3%82%b9%e5%b3%b6.html


翌日。
「イパネマ海岸」と名付けられたその写真を見て、すぐに近藤さんにメールをしたところ、その翌日に返信があった。

「おめでとうございます。イパネマは、あなたのところに移籍することになりました」

と。








小笠原満男というサッカー選手のプレーを、テレビで初めて見たとき、腰が抜けるほど驚いた。

こんな物凄い才能を持った選手がいるのか、と。

僕が叶えられなかった夢は、彼に托そう。

彼と同い年の僕は勝手にそう思い、それ以来10年以上にわたって、彼のプレーを見つめ続けてきた。




若かりし頃の、彼のプレー・スタイルを一言で表すなら、「職人」だった。

チームの勝利よりも、自分の出来に対して、よりこだわりを持つ選手だったように思う。

失意のドイツ・ワールドカップの後、イタリアでの不遇の一年を経て帰国した彼のプレー・スタイルは、明らかに昔のものと変わっていた。

足技を競う職人から、気持ちを前面に出す闘将に。

その事実は、僕に小さな寂しさと大きな喜びをもたらした。




岩手県出身の彼が、自家用車で被災地に向かい、自分の言葉で窮状をメディアに訴えかけていた。

そこには、イタリアのチームから来た移籍のオファーを、チームが勝手に断ったからといって、「出られる気分ではない」と次の試合を欠場した、かつてのナイーブな男の姿は、どこにも無かった。

被災したサッカー少年が、スパイクやボールを買うお金が無い可能性もある。グラウンドが無くなって、サッカーを辞めてしまう子供もいるかもしれない。そうならないように、今後、出来る限り活動していきたい。

かつての職人は、そう語っている。



近藤さんから頂いた写真に対するドネーションは、小笠原満男が立ち上げる基金に送ろうと思う。

Sunday 13 March 2011

言葉など・・・

東京で生まれ育ち、東京のために働いている。

けれども、両親共に東北の出身で、心のどこかで、自分の故郷は東北だと、勝手に思ってきた。

逃げることの出来ない現実が、目から、耳から入ってくる。

サクライ氏が歌っているように、「言葉など、ただ虚しい」のだけれも・・・


Wednesday 16 February 2011

husky voice

家の近くのカフェに一人で向かい、軽めの夕食をとった。

こじんまりとしたそのカフェの中に客は僕しかいなく、店内には聞いたことの無い音楽が流れていた。

聞いたことは無かったけれども、その歌声から、それがCat Powerの音楽であることに気が付いた。

そのかすれるような声と、外の闇、店内の灯が全てマッチしていて、何だか心地よかった。

http://www.youtube.com/watch?v=MVGgGW1ZalY

Saturday 12 February 2011

lantern


イサム・ノグチという名前を初めて耳にしたのは、大学生の頃だったように思う。

現在では彫刻家としてよりも、彼がデザインした'Akari'と名付けられた提灯シリーズがよく知られていて。

僕自身、今は無き雑誌「太陽」を通して初めて'Akari'を見て以来、この商品をいつか手に入れたいと秘かに思い続けていた。 

今回、色々なタイミングが揃い、念願の'Akari'を手に入れた。

学生の頃に感じた、彼の作品に対する畏怖の念は変わらないけれども。

僕の中で唯一変わったことと言えば、「物」よりも「生活」の方が遥かに大事な要素になったことだろうか。

Tuesday 8 February 2011

ballpoint pen


母親の誕生月が8月で。

昨夏、「今年は何か欲しいのものある?」と訊ねたら、

「気に入って使っていたボールペンが壊れてしまったので、直して欲しい」と言われた。

ぐむむ、小生は修理職人ではありませぬ。



KENZOというブランド名の入った花柄のそのペンは、確かに悪くないデザインで。

多少のお金を出して修理に出す価値がありそうに思えたけれども。

近くの文房具屋のおばちゃんに尋ねると、「そういったファッション・ブランドの文房具を修理に出すことは難しい」という、予想通りの返事が返ってきた。

母にその旨を伝え、「代わりに、適当なボールペンを買う」約束をしたのだけれども。

昨夏は、海外に行く準備や職場の昇任試験やらがあって、何だかバタバタしていた。

「日本に帰ってきたら探そう」

そう思い残し、旅に出た。



海外にいる間、

「日本に帰ったら、これをしよう、あれを食べよう」

などと、思いを馳せていたのだけれども。

いざ帰国してみると、大抵のことはどうでもよくなってしまう。

母のボールペンのことは、もっと「どうでもよいこと」であったようで。

海外にいた3ヶ月間、一度も思い出さなかったばかりか、帰国してからも1月以上、完全に忘れていた。



どうせ探すならと思い、仕事帰りに銀座の伊東屋に寄る。

店員さんに、「母への贈り物なのですが・・・」などという当たり障りのない相談をしたら、当然の事ながら赤っぽいカラーのものを中心に勧められた。

少し反省し、自分のセンスと懐具合に問い掛けてみると、なかなか良さそうな書き心地とデザインの商品を見つけた。

ParkerというメーカーのSonnet  というその商品は、当初想定していた予算の5倍くらいしたけれども、母に長く使って貰えるのだったら、それほど高くはないような気がした。

Thursday 27 January 2011

マエダ

トーキョーにあるギョーセーという学校は、第一外国語にフランス語を教えることで有名な中高一貫教育の男子校で。

進学校でありながら、サッカーの強豪校でもある。

進路に悩んでいた中学生の頃、「サッカーの強い進学校」というと、真っ先にギョーセーコーコーが頭に浮かんだのだけれども。

「ギョーセーは、高校からの部外者は入れないらしいぜ」

という噂は自然と耳に入ってきていたので、早い段階から入学は諦めていた。

確かに、英語の文法すらろくに知らない人間が、ギョーセーコーコーに入って、フランス語の授業に付いて行けるとも思えない。



ギョーセーコーコーにマエダ・リョウイチという選手がいて、ジュビロ・イワタに入団するらしい。

そんな話を聞いてしばらくした後、プロになった彼のプレーを見た。

マエダ・リョウイチのプレー・スタイルは、誰の物にも似ていなかったけれども。

とてつもない才能を持った選手であることは、すぐに分かった。



それ以来、ボタンの数が特徴的なギョーセーの学ランを来た学生を電車の中で見かけるたびに。

決まって、マエダ・リョウイチのことを思い出すようになった。



初めて彼のプレーを見てから、日本代表のエースになるまで。

随分と時間が掛かったように思うのだけれども。

「おぼっちゃん」学校であるギョーセーの出身らしく、FWながら、どこか気品ある彼のプレーを眺めることは、僕の秘かな喜びである。

Saturday 15 January 2011

skin turns brown

大ファン、という訳でもないのだけれども。

Norah Jonesの歌声を、たまに聞きたくなる。

フロリダにいたある日、スターバックスに入ってコーヒーを注文しようとしたら、レジの前に彼女のCDが置いてあった。

見たことも、聞いたこともない作品だったけれども、10ドルそこそこだったので、一緒に買うことにした。

彼女がフィーチャリングした曲を集めたそのCDは、旅の間、そんなに聞くことがなかったのだけれども。

日本に帰ってきて何回か聞いてみたら、なかなか良い。




この曲は、メロディも良いけれど。

Travel south until your skin turns, woman
Travel south until your skin turns brown
Put a language in your head and get on a train
And then come back to the one you love

この歌詞、好きだなぁ。

http://www.youtube.com/watch?v=jdnVyOe1Pvg

Friday 14 January 2011

Naam

旅雑誌「coyote」が休刊する、という話を知った。

先日、恵比寿ガーデンシネマが休館する、という話を聞いたばかりだったので、何だか寂しい話が続いている。

新井敏記さんという、「switch」を立ち上げた編集者が、新たに刊行した「coyote」。

部屋の本棚を数えてみたら、計15冊持っていた。

46号で休刊になるらしいので、1/3近くを買ったことになる。



特にお気に入りの号は、何冊かあるのだけれども。

一冊と言われたら、間違いなく「バンクーバー特集」をあげると思う。

バンクーバーに留学するかどうか迷っていた僕の背中を押してくれた力の何割かは、この雑誌だった。

そして、その中で紹介されていた、バンクーバー最古のオーガニック・レストラン「The Naam」は、街で一番のお気に入りのお店になった。

本棚から、久しぶりに取り出して眺めていたら、無性にあの街へ帰りたくなった。

「coyote」は、どんなガイドブックよりも、僕の心を旅先へとガイドしてくれる雑誌であったように思う。

http://www.thenaam.com/naam/

http://www.coyoteclub.net/catalog/010/index.html

Wednesday 12 January 2011

髭坊主


「髪の毛」と「もみ上げ」と「髭」の見分けがつかない。

そんな姿に憧れを持ち始めたのが、いつだったかは記憶が定かではないのだけれども。

FCバルセロナのグアルディオラ監督は、近年まれに見る「三拍子」揃った男であり。

この2年ほど、僕がそんな格好をしていた理由の何割かは、彼の存在もあったように思う。



それなりの「こだわり」を持って、そんな格好をしてきたつもりだったけれども。

そんな「こだわり」を「どうでもいい」と思わせてくれる出来事もあるわけで。

鏡の中で久しぶりにはっきりと見る自分の顔は、「髭」という仮面が無くなって、何だか少しおどおどしていた。

Friday 7 January 2011

cycle

物事には、サイクルというものがあるらしい。

持っている2つの時計のベルトが、ほぼ同時期に壊れ、同時に修理に出している。

しかも同じメーカーの物で、両者で異なる点と言えば、ベルトの形状くらい。

今となっては、なぜ同じような時計を2個も買う必要があったのか分からないのだけれども。

20代前半の頃に買った物を見てみると、本当にうんざりとさせられるくらい、同じような物が多い。

けれども長いこと、洋服などの趣味がほとんど変わっていないので、捨てる気にもならない。

時計に続き、革靴も2足壊れた。

もうこうなったら、しばらく「ワードローブ修理期間」と腹をくくり、サイズが微妙に合わないコートやジャケットは、専門のお店でアジャストして貰おうか、なんて考え始めたくらい。



一つのサイクルが終わり、次のステップを登り始めなくてはならない。

ひょっとして、そんな時期にきているのかもしれない。

Tuesday 4 January 2011

fast food nation

仕事始め。

お昼を食べようと思って外に出たら、思いのほか、まだ休みのお店が多かった。

やむなく、牛丼チェーン店へ。

随分混んでるなぁ、と思いながら定食を注文した。

ファスト・フード店でも、あそこまで混むと、さすがに「ファスト」ではなくなるらしい。



「ご飯がなくなってしまって、いま炊きなおしているので、もう10分ほどお待ち頂けますか?」

店員さんが待っている客に説明し始めると、露骨に嫌な顔を店員さんに向け、店を立ち去る人もいた。

牛丼チェーン店でお米が炊けていない。

こんな状況は想像したことがなかったけれども。

まぁ起こり得ることだとは思う。



結局、15分ほど待って、僕の頼んだ定食はきた。

フロリダで1月の間、お米をまともに食べられなかったことを思えば、15分なんて大した時間じゃない。

ファスト・フード店でスローに出された640円の定食は、普段よりも美味しく感じられた。